appeal

”法華経寿量品”、で、

”迹門”、の、普遍の、”私”、が説かれたように、

”今、ここ”、の善(創造)の森では、

”本門”、の、普遍の、”私”、が説かれ、

その、”寿量品”、を受けて、次の、”法華経分別功徳品”、では、

”迹門”、の、”三大秘法”、が説かれ、

無数の衆生が得度したように、

”今、ここ”、の善(創造)の森では、

”本門”、の、”三大秘法”、が説かれ、

”本門”、の、普遍の、”私”、を知った、無数の衆生が、
”迹門”、から、”本門”、への、”真の目的”、に目覚め、

大慈悲心の、”地涌の菩薩”(真の自由人)、となって出現する。

その時、”今、ここ”、の善(創造)の森は、

”本門”(真)、の、”善悪”、を、分別し、

”今、ここ”、の善(創造)の森で、
愚人、悪人、偽善者、破壊者、と、分別されたもの達は、

”今、ここ”、の善(創造)の森で、説かれた、”最善の真理”、のもとで、
その、”道理”、とともに、その言説と、振る舞いとから、決定されたことなのだから、

その、愚人、悪人、偽善者、破壊者、達が、
その、愚人、悪人、偽善者、破壊者、としての、
地獄の、”責め、苦”、を逃れるためには、

”今、ここ”、で、その、”最善の真理”、の、”最善の解釈”、を打ち消す、

その、”最善の真理”、に対する、新たな、”最善の解釈”、を示し、

それを、弾呵(だんか)し!
破折(はしゃく)しなければならない!

”今、ここ”、の善(創造)の森の、”最善の真理”、のもとで、
その、”道理”、とともに、その言説と、振る舞いとから、
大悪党(大破壊者)(大偽善者)の第六天の魔王、僭聖増上慢、と分別された、
”黄金の英雄”、は、

”今、ここ”、で、

”法華経の本門”、の、”最善の真理”、である、
”三大秘法”(本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇)、の、
それぞれの、その、”最善の解釈”(本義、正義)、を、新たに示し、

それを、弾呵(だんか)し!
破折(はしゃく)しなさい!

もし、その新たな、”最善の解釈”、が示せないのであれば、

その、”黄金の英雄”、は、
”今、ここ”、の善(創造)の森で、
”最善の真理”、のもとで、
その、”道理”、とともに、その言説と、振る舞いとから、決定されたとおりの、

大悪党(大破壊者)(大偽善者)であり、

”本門”(真)、の、”本化、本門の法華経の行者(指導者)”、であるはずもなく、

その正体は、”権門の目的”(名声、お金、権力、地位、メンツ)、だけで、のみ、言説し、行動してきた、

権門の、”本化、本門の法華経の行者(指導者)”、であり、

(真言化が表に出てきた)今となっては、

”権門の目的”(名声、お金、権力、地位、メンツ)、だけで、のみ、働く、

大悪党(大破壊者)(大偽善者)の第六天の魔王、僭聖増上慢だ!

もし、その、”黄金の英雄”、が、その、”最善の解釈”(本義、正義)、を、

”今、ここ”、で、新たに示しすことの出来るような人物ならば!

自分の名など自賛せずに、

(その自賛を、”本門の釈尊”(日蓮)、の自賛と、同一視するかもしれないが、
”本門の釈尊”(日蓮)、の自賛は、”最善の真理”、に対する、新たな、”最善の解釈”、を示し、その、”道理”、に基づいた仏教史観(生命史観)の、”本門の釈尊”、の内証の自覚から出たもので、その、”道理”、をもって、仏教の奥義を開き、末法万年の衆生を救済し、当時の、蒙古の他国侵逼(しんぴつ)による、日本国滅亡という危機に際して、宗教界(思想界)、政界、の、”善悪”、の、”けじめ”、”本筋目”、をつけて、命がけで、時の為政者を諫暁(かんぎょう)し、その愚人の為政者の甘言をもきっぱり断り、未来に渡る仏教本家本流の礎(いしずえ)を強固なものにし、その本分、本懐を全うしている。そして、その662年後の、第二次世界大戦の日本国滅亡という危機に際して、”恩師”、もまた、宗教界(思想界)、政界、の、”善悪”、の、”けじめ”、”筋目”、をつけ、靖国軍事全体政権の為政者を諫暁(かんぎょう)し、その愚人の為政者の甘言をもきっぱり断り、命を賭(と)して、未来に渡る仏教本家本流の礎(いしずえ)を強固なものにし、その本分、本懐を全うしている。それに対して、本来ならば、”本師”、”本門の釈尊”(日蓮)、のように、”恩師”、のように、反対側の先頭に立って、顔を真っ赤にして批判し、諫暁(かんぎょう)し、正さなければならない、愚人(靖国の亡者)の為政者の、その愚人と愚策に対して、その愚人側につき、それを許し、それを助長し、それを応援し、”善悪”、の、”けじめ”、”筋目”、を骨抜きにし、その愚策の愚策、愚行の愚行によって、本家本流の、”最善”、が破壊され、世界的な、”虚無”、がもたらされ、今日の日本の危機のみならず、世界的大破壊の危機をも出現させてしまったというのに、さらに、その愚人から誉められて、憚(はば)らず、偉い人にたくさん会ったから偉いとか、勲章をたくさんもらったから偉いとか、偏った情報や情報不足のために、善意の、”其不習学者 不能暁了此”、の人々に誉められたから偉いとか、枝葉末節の文章や演説を重い全集にして、床が抜けるように残したから偉いとか、たくさんの大きな建物に自分の名前を掲げさせ、生き仏のように、自我自賛し、その、”権門の功績”、を盾に、”今、ここ”、で、”本師”、を裏切り、”恩師”、を裏切り、”最善の真理”、をも裏切って、未来に渡る仏教本家本流の礎(いしずえ)までも、骨抜きにしてしまっている、何処かの大戯けの、”大偽善者”、”大破壊者”、とは、似ても似つかない、もの!)

自分は泥をかぶってでも、

”善悪”、の、”けじめ”、は言うに及ばず、

その、”最善の真理”、と、

指導者としての帝王学とともに、その、”真理”、を、手を取り足を取って教えてくれた、
その、”恩師”、と、を、おびだだしく称えること、と、

そして、
自分のお金と、

”自分の命よりも大事だ!”、と、”恩師”、の言っていた、最善の組織の、そのお金と、を
明らかに分別し、

たとえ、不正がなくとも、そのお金の使い道を公にすること、とは、

世界的な最善の組織の健全な発展を願い、未来に渡る仏教本家本流の礎(いしずえ)を強固なものにする責任のある、世界的な最善の組織を率いる、世界的な最善の長として、

極めて当然のこととして、実行していることだろう!

”偽善者”(破壊者)、は、常に、善人の、”誠意”、”善意”、を、養分として肥え太り、
”方便”、では、その善人の、”誠意”、”善意”、に応(こた)えるように話し、そのように振る舞い、
”隋自意”、では、その、”権門の目的”(名声、お金、権力、地位、メンツ)、のためにのみ働き、
(つまり、”権門の目的”、のためにのみ、”方便”、を使い)

その、”偽善者”、の、”名声”、に泥を塗る、邪魔な、”大善者”(創造者)、に対しては、
破壊者に仕立て、悪魔の言葉を吐く悪魔、と讒言(ざんげん)し、悪魔の濡れ衣を着せる。
(提婆が仏陀に対したように)

”大善者”(創造者)、は、善人の、”誠意”、”善意”、を、よく汲み取り、
”方便”、では、その善人の、”誠意”、”善意”、に応(こた)えるように話し、そのように振る舞い、
”隋自意”、では、”本門の目的”(衆生の真の自立、衆生無辺誓願度)、のためにのみ働き、
(つまり、”本門の目的”、のためにのみ、”方便”、を使い)

真の、”偽善者”(破壊者)、を、見破り、唾棄(だき)し、弾呵(だんか)し、破折(はしゃく)する。
(仏陀が提婆に対したように)

良書とともに、愚書、悪書、をよく読みなさい!

何が良いか、何が愚か、何が悪か、を分別し、

何が、真の愚か、何が、真の悪か、を明らかにするために!

正論とともに、中傷、批判をよく聞きなさい!

何が正論で、何が中傷、批判で、何が真で、何が偽で、

何が、真の愚か、何が、真の悪か、を明かにして、真の、”善悪”、を分別し、正すために!

書を焼き、

眼や耳を塞(ふさ)ぎ、

情報を隠し、

精神の判断を誤らせ、

”善悪”、の、”けじめ”、をつけさせない、”大善人”、は、

”大偽善者”、と知れ!

”本化、本門の法華経”、の、”最善の真理”、が、これ程までに、世界に広まったのは、

その、”最善の真理”、の、”道理”、の力と、
その一分を体現した、多くの善人達の、”誠意”、”善意”、によるもので、

彼等の側から見た、その、”黄金の英雄”、の真の役割は、

善意の彼等が、仮に自分自身の、”仏性”、”誠意”、”善意”、を投影して、
”広布”、”貢献”、の励みのバネとしてあつらえた、
”外化”、された対象物、
方便の英雄像(虚栄)でしかなく、

その方便の英雄像(虚栄)に与えられた、多くの勲章、称賛は、
その方便の英雄像(虚栄)が、方便(お為ごかし)で、いつもそう言っているのとは違って、
文字どおり、その、”虚栄”、を通り抜け、
真に、その、”仏性”、”誠意”、”善意”、で貢献してきた、多くの善人達に、
そして、その、”最善の真理”、に与えられたもの。

”偽善者”、は、善人達の、この、”誠意”、”善意”、を、甘い養分として吸い取り、肥え太る。

だから、彼が、騙し、裏切り続けてきた、その善人達の、覚醒による、彼に対する、”怒り”、”憎しみ”、を最も恐れる。

”偽善者”、は、その騙され、裏切られ続けてきた、その善人達の、覚醒による、”怒り”、”憎しみ”、という、辛(から)い、”塩”、で、簡単に消滅してしまう。

しかし、僅かでも、その、”偽善者”、を信じて、善人と称える、善人達の、”誠意”、”善意”、の甘い養分がある限り、 ”偽善者”、は、いつまでも、方便(お為ごかし)の愛敬(あいきょう)とともに、その慈(自)愛の眼差しを振り撒きながら、その甘い養分を吸い続け、死後も消えることはない。
(1200年前の悪僧が、今でも、名僧と称され、慕われているように)

(偏った情報や情報不足で、正しい判断ができないのが最大の原因)(又、見せ掛けの、”誠意”、”善意”、で、彼らの、”誠意”、”善意”、を満足させ、疑いを生じさせない)

”偽善者”、の、”ナメクジ”、には、きっぱりと、たくさんの、”塩”、をかけてやりましょう!

(本物のナメクジには、塩をかけたりしませんように。彼等はりっぱに、その、”お勤め”、をはたしていらっしゃいますから)

もし、それら、”黄金の英雄”、も、”偽善者”、も、”ナメクジ”、も、
虚妄(こもう)だ!中傷だ!

と断じるならば、

”今、ここ”、で、

その、”黄金の英雄”、は、
真の、”本化、本門の法華経の行者(指導者)”、として、
その、”最善の真理”、の、”最善の解釈”、を新たに示し、

それを、弾呵(だんか)し!
破折(はしゃく)しなさい!

森へ

to the woods

(2002.11.28)
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