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”是(これ)は、書写の功徳なり。五種法師の中には、書写は最下の功徳なり。何に況(いわん)や、読誦なんど申すは、無量無辺の功徳なり。今の施主、十三年の間、毎朝、読誦せらるる、自我偈(じがげ)の功徳は、「唯仏与仏乃能究尽(ゆいぶつよぶつないのうくじん)」、なるべし。夫(そ)れ、法華経は、一代聖教の骨髄なり。自我偈(じがげ)は、二十八品のたましひなり。三世の諸仏は、寿量品を命とし、十方の菩薩も、自我偈を眼目とす。自我偈の功徳をば、私に申すべからず。次下(つぎしも)に、分別功徳品に載せられたり。此の自我偈を聴聞して、仏になりたる人人の数をあげて候には、小千大千三千世界の微塵の数をこそあげて候へ。其の上、薬王品已下の六品得道のもの、自我偈の余残なり。涅槃経四十巻の中に、集りて候いし、五十二類にも、自我偈の功徳をこそ、仏は重ねて説かせ給いしか。されば、初め、寂滅(じゃくめつ)道場に、十方世界微塵数の大菩薩・天人、等、雲の如くに集りて候いし、大集(だいしつ)・大品、の、諸聖も、大日経・金剛頂経、等、の、千二百余尊も、過去に、法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして、三五の塵点を経しかども、今度、釈迦仏に値(あ)い奉りて、法華経の功徳すすむ故に、霊山をまたずして、爾前(にぜん)の経経を縁として、得道なると見えたり。
されば、十方世界の諸仏は、自我偈を師として仏にならせ給う。世界の人の父母の如し。今、法華経寿量品を持つ人は、諸仏の命を続ぐ人なり。我が得道なりし経を持つ人を、捨て給う、仏、あるべしや。若(も)し、此れを捨て給はば、仏、還(かえ)って、我が身を捨て給うなるべし。これを以て思うに、田村利仁(としひと)なんどの様なる兵(つわもの)を、三千人、生みたらん女人あるべし。此の女人を敵とせん人は、此の三千人の将軍をかたきにうくるにあらずや。法華経の自我偈を持つ人を敵とせんは、三世の諸仏を敵とするになるべし。今の法華経の文字は、皆、生身の仏なり。我等は、肉眼なれば文字と見るなり。たとへば、餓鬼は、恒河を火と見る。人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども、果報にしたがって、見るところ、各別なり。此の法華経の文字は、盲目の者は、之を見ず。肉眼は、黒色と見る。二乗は、虚空と見、菩薩は、種種の色と見、仏種、純熟せる人は、仏と見奉る。されば、経文に云く、「若(も)し、能く持つこと有るは、即(すなわ)ち、仏身を持つなり」、等、云云。天台の云く、「稽首(けいしゅ)妙法蓮華経一帙(ちつ)・八軸・四七品・六万九千三八四・一一文文、是、真仏。真仏説法利衆生」、等、と、書かれて候。
之を以て之を案ずるに、法蓮法師は、毎朝、口より金色(こんじき)の文字を出現す。此の文字の数は、五百十字なり。一一の文字、変じて日輪となり、日輪変じて、釈迦如来となり、大光明を放って、大地をつきとをし、三悪道、無間大城を照し、乃至(ないし)、東西南北、上方に向っては、非想非非想へも、のぼり、いかなる処にも、過去、聖霊のおはすらん処まで、尋ね行き給いて、彼の聖霊に語り給うらん。「我をば誰とか思食(おぼしめ)す。我は、是(こ)れ、汝が子息、法蓮が、毎朝、誦する所の法華経の自我偈の文字なり。此の文字は、汝が眼(まなこ)とならん、耳とならん、足とならん、手とならん」、と、 こそ、ねんごろに、語らせ給うらめ。其の時、過去、聖霊は、我が子息、法蓮は、子にはあらず、善知識なり、とて、娑婆世界に向って、おがませ給うらん。是(これ)こそ、実の孝養にては候なれ。”

(2005.06.02)
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