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”問うて云く、天台・伝教、の、弘通(ぐずう)し、給(たま)わざる正法ありや。答えて云く、有り。求めて云く、何物ぞや。答えて云く、三(みつ)あり。末法(まっぽう)のために、仏、留(とど)め置き給う、迦葉(かしょう)・阿難(あなん)、等、馬鳴(めみょう)・竜樹(りゅうじゅ)、等、天台・伝教、等、の、弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云く、其の形貌(ぎょうみょう)、如何(いかん)。答えて云く、一には、日本、乃至(ないし)、一閻浮提(いちえんぶだい)、一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂(いわゆる)、宝塔の内の、釈迦・多宝、外(そのほか)の諸仏、並に、上行(じょうぎょう)等、の、四菩薩、脇士(きょうじ)となるべし。二には、本門の戒壇。三には、日本、乃至(ないし)、漢土・月氏、一閻浮提に、人ごとに、有智無智をきらはず、一同に、他事をすてて、南無妙法蓮華経、と、唱うべし。此の事、いまだひろまらず。一閻浮提の内に、仏滅後、二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、等、と、声もをしまず唱うるなり。例せば、風に随って、波の大小あり。薪(たきぎ)によって、火の高下あり。池に随って、蓮(はちす)の大小あり。雨の大小は、竜による。根ふかければ、枝しげし。源(みなもと)遠ければ、流ながし、という、これなり。周の代(よ)の七百年は、文王の、礼・孝、に、よる。秦(しん)の世、ほどもなし。始皇の左道(さどう)によるなり。
日蓮が、慈悲曠大(じひこうだい)ならば、南無妙法蓮華経、は、万年の外(ほか)、未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は、伝教・天台、にも超へ、竜樹・迦葉(かしょう)、にもすぐれたり。極楽百年の修行は、穢土(えど)の一日の功徳に及ばず。正像(しょうぞう)二千年の弘通は、末法(まっぽう)の一時に劣るか。是(こ)れひとへに、日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむる耳(のみ)。春は花さき、秋は菓なる。夏はあたたかに、冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。
「我、滅度の後(のち)、後の五百歳の中に、広宣流布して、閻浮提(えんぶだい)に於て、断絶して、悪魔・魔民・諸の天竜・夜叉(やしゃ)・鳩槃荼(くはんだ)、等、に、其の便(たよ)りを、得せしむること無けん」、等、云云。此の経文、若(も)し、むなしくなるならば、舎利弗は、華光(けこう)如来とならじ。迦葉(かしょう)尊者は、光明如来とならじ。目?(もっけん)は、多摩羅跋栴檀香(たまらばせんだんこう)仏とならじ。阿難(あなん)は、山海慧自在通王(せんかいえじざいつうおう)仏とならじ。摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)は、一切衆生喜見(いっさいしゅじょうきけん)仏とならじ。耶輸陀羅比丘尼(やしゅたらびくに)は、具足千万光相(ぐそくせんまんこうそう)仏とならじ。三千塵点(じんてん)も戯論(けろん)となり、五百塵点(じんてん)も妄語(もうご)となりて、恐(おそ)らくは、教主釈尊は、無間地獄に堕ち、多宝仏は、阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は、八大地獄を栖(すみか)とし、一切の菩薩は、一百三十六の苦しみをうくべし。いかでか、その義、候べき。其の義なくば、日本国は、一同の、南無妙法蓮華経、なり。されば、花は、根にかへり、真味(しんみ)は、土にとどまる。此の功徳は、故(こ)道善房の聖霊(しょうりょう)の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。


建治二年、[太歳(たいさい)丙子(ひのえね)]七月二十一日、之を記す

甲州、波木井郷(はきいのごう)身延山より、安房(あわ)の国、東条の郡(こおり)、清澄山(せいちょうざん)、浄顕房(じょうけんぼう)・義成房(ぎじょうぼう)、の、許(もと)に、奉送(ぶそう)す。

(報恩抄、編年体御書P888、御書P293)

(2005.05.29)
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