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”問うて云(いわ)く、法華経一部八巻二十八品の中に、何物か、肝心なるや。答えて云く、華厳経の肝心は、大方広仏華厳経。阿含(あごん)経の肝心は、仏説中阿含経。大集(だいしつ)経の肝心は、大方等大集経。般若経の肝心は、摩訶般若波羅蜜経。雙観(そうかん)経の肝心は、仏説無量寿経。観経の肝心は、仏説観無量寿経。阿弥陀経の肝心は、仏説阿弥陀経。涅槃(ねはん)経の肝心は、大般(だいはつ)涅槃経。かくのごとくの一切経は、皆、「如是我聞(にょぜがもん)」、の、上(かみ)の題目、其の経の肝心なり。大は大につけ、小は小につけて、題目をもって、肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地(そしつじ)経、等、亦復(またまた)、かくのごとし。仏も、又、かくのごとし。大日如来・日月燈明(にちがつとうみょう)仏・燃燈(ねんとう)仏・大通仏・雲雷音王(うんらいおんのう)仏、是等の仏も、又、名の内に、其の仏の種種の徳をそなへたり。今の法華経も、亦(また)、もってかくのごとし。「如是我聞(にょぜがもん)」、の、上(かみ)の、妙法蓮華経、の、五字は、即(すなわ)ち、一部八巻の肝心、亦復(またまた)、一切経の肝心。一切の諸仏・菩薩・二乗・天・人・修羅・竜神、等、の、頂上の正法なり。
問うて云く、南無妙法蓮華経、と、心もしらぬ者の唱うると、南無大方広仏華厳経、と、心もしらぬ者の唱うると、斉等(さいとう)なりや、浅深の功徳(くどく)、差別せりや。答えて云く、浅深等あり。疑って云く、其の心、如何(いかん)。答えて云く、小河は、露(つゆ)と涓(したたり)と井と渠(みぞ)と江(え)とをば収むれども、大河を、をさめず。大河は、露(ろ)、乃至(ないし)、小河を摂(おさ)むれども、大海を、をさめず。阿含経は、井(せい)・江(こう)、等、露(つゆ)・涓(したたり)、を、をさめたる小河のごとし。方等(ほうとう)経・阿弥陀経。大日経。華厳経、等、は、小河を、をさむる大河なり。法華経は、露(ろ)・涓(けん)・井(せい)・江(こう)・小河・大河・天雨、等、の、一切の水を、一渧(いってい)ももらさぬ大海なり。譬えば、身の熱者の、大寒水(だいかんすい)の辺(ほとり)に、いねつれば、すずしく、小水の辺に、臥(ふ)ぬれば、苦しきがごとし。五逆・謗法(ほうぼう)、の、大一闡提(だいいせんだい)人、阿含・華厳・観経・大日経、等、の、小水の辺にては、大罪の大熱、さんじがたし。法華経の、大雪山の上に臥(ふ)しぬれば、五逆・誹謗(ひぼう)・一闡提(いっせんだい)、等、の、大熱、忽(たちま)ちに、散ずべし。されば、愚者は必ず法華経を信ずべし。各各(おのおの)経経(きょうぎょう)の題目は、易(やす)き事、同じといへども、(法華経を信じる)愚者と、(権経を信じる)智者との(それぞれの題目を)唱うる功徳は、天地雲泥なり。譬へば、大綱(おおつな)は、大力も切りがたし。小力なれども、小刀をもってたやすくこれをきる。譬へば、堅き石をば、鈍き刀(かたな)をもてば、大力も破(わ)りがたし。利(と)き剣(つるぎ)をもてば、小力も破りぬべし。譬へば、薬はしらねども、服すれば、病(やまい)、やみぬ。食は服すれども、病、やまず。譬へば、仙薬(せんやく)は、命をのべ、凡薬(ぼんやく)は、病をいやせども、命をのべず。
疑って云く、二十八品の中に、何(いず)れか、肝心ぞや。答えて云く、或は云く、品品、皆、事に随いて、肝心なり。或は云く、方便品・寿量品、肝心なり。或は云く、方便品、肝心なり。或は云く、寿量品、肝心なり。或は云く、開示悟入(かいじごにゅう)、肝心なり。或は云く、実相、肝心なり。
問うて云く、汝が心、如何(いかん)。答う、南無妙法蓮華経、肝心なり。其の証、如何(いかん)。阿難(あなん)・文殊(もんじゅ)、等、「如是我聞」、等、云云。問うて云く、心、如何(いかん)。答えて云く、阿難と文殊とは、八年が間、此の法華経の無量の義を、一句一偈(げ)、一字も残さず聴聞してありしが、仏の滅後に、結集の時、九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに、先(ま)づはじめに、妙法蓮華経、と、かかせ給いて、「如是我聞」、と、唱えさせ給いしは、妙法蓮華経、の、五字は、一部八巻二十八品の肝心にあらずや。されば、過去の燈明(とうみょう)仏の時より、法華経を講(こう)ぜし、光宅(こうたく)寺の法雲(ほううん)法師は、「如是とは、将(まさ)に、所聞(しょもん)を伝えんとして、前題(ぜんだい)に、一部を挙(あ)ぐるなり」、等、云云。霊山(りょうぜん)に、まのあたりきこしめしてありし、天台大師は、「如是とは、所聞(しょもん)の法体(ほったい)なり」、等、云云。章安(しょうあん)大師の云く、「記者、釈して曰く、蓋(けだ)し、序王とは、経の玄意(げんい)を叙(じょ)し、玄意(げんい)は、文の心を述(じゅつ)す」、等、云云。此の釈に、文の心とは、「題目は、法華経の心」、(ということ)なり。妙楽大師、云く、「一代の教法を収(おさ)むること、法華の文の心より出(い)ず」、等、云云。天竺(てんじく)は、七十箇国なり。総名は、月氏(がっし)国。日本は、六十箇国。総名は、日本国。月氏の名の内に、七十箇国、乃至(ないし)、人畜・珍宝、みなあり。日本と申す名の内に、六十六箇国あり。出羽(でわ)の羽(は)も、奥州の金(こがね)も、乃至(ないし)、国の珍宝・人畜、乃至(ないし)、寺塔(じとう)も、神社も、みな、日本と申す二字の名の内に摂(おさま)れり。天眼(てんげん)をもっては、日本と申す二字を見て、六十六国、乃至(ないし)、人畜等をみるべし。法眼(ほうげん)をもっては、人畜等の、此(ここ)に死し、彼(かしこ)に生るをもみるべし。譬(たと)へば、人の声をきいて、体をしり、跡(あと)をみて、大小をしる。蓮(はちす)をみて、池の大小を計(はか)り、雨をみて、竜の分斉(ぶんさい)をかんがう。これはみな、一に一切の有ることわりなり。
阿含経の題目には、大旨(おおむね)、一切はあるやうなれども、但(ただ)、小釈迦、一仏のみありて、他仏なし。華厳経・観経・大日経、等、には、又、一切有るやうなれども、二乗(にじょう)を仏になすやうと、久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦仏、いまさず。例せば、華(はな)さいて、菓(このみ)ならず、雷(いかずち)なって、雨ふらず、鼓(つづみ)あって、音なし、眼(まなこ)あって、物をみず、女人あって、子をうまず、人あって、命(いのち)なし、又、神(たましい)なし。大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言、等、又、かくのごとし。彼の経経(きょうぎょう)にしては、大王・須弥山(しゅみせん)・日月・良薬・如意珠(にょいじゅ)・利剣、等、の、やうなれども、法華経の題目に対すれば、雲泥(うんでい)の勝劣なるのみならず、皆、各各(おのおの)、当体の自用を失ふ。例せば、衆星の光の、一の日輪にうばはれ、諸の鉄の、一の磁石に値(あ)うて、利性のつ(尽)き、大剣の、小火に値(あ)うて、用(ゆう)を失ない、牛乳(ごにゅう)・驢乳(ろにゅう)、等、の、師子王の乳に値うて、水となり、衆狐(しゅうこ)が術、一犬に値うて失い、狗犬(くけん)が小虎に値うて、色を変ずるがごとし。南無妙法蓮華経、と、申せば、南無阿弥陀仏の用も、南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も、一切の諸仏・諸経・諸菩薩、の、用、皆、悉(ことごと)く、妙法蓮華経、の、用に、失なはる。彼の経経(きょうぎょう)は、妙法蓮華経、の、用を借(か)らずば、皆、いたづら(徒)のもの(物)なるべし。当時、眼前(げんぜん)の、ことはりなり。日蓮が、南無妙法蓮華経、と、弘むれば、南無阿弥陀仏の用は、月のかくるがごとく、塩のひるがごとく、秋冬の草のかるるがごとく、冰(こおり)の日天にとくるがごとく、なりゆくをみよ。”

(2005.05.26)
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