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”されば、善無畏(ぜんむい)三蔵は、中天の国主なり。位をすてて、他国にいたり、殊勝(しゅしょう)・招提(しょうだい)の二人にあひて、法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば、法華経の行者とこそみへしか。しかれども、大日経を習いしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやおもひけん。始めは、いたう其の義もなかりけるが、漢土にわたりて、玄宗皇帝の師となりぬ。天台宗をそねみ思う心つき給いけるかのゆへに、忽(たちま)ちに、頓死(とんし)して、二人の獄卒(ごくそつ)に、鉄の縄、七すぢつけられて、閻魔王宮にいたりぬ。命(いのち)、いまだつきずといゐて、かへされしに、法華経を謗(ぼう)ずるとやおもひけん、真言の観念(かんねん)・印。真言、等、をば、なげすてて、法華経の、「今此三界」、の、文を唱えて、縄も切れ、かへされ給いぬ。又、雨のいのりをおほせつけられたりしに、忽(たちま)ちに、雨は下(ふ)たりしかども、大風吹きて、国をやぶる。結句(けっく)、死し給いてありしには、弟子等、集りて、臨終、いみじきやうをほめしかども、無間大城に堕(お)ちにき。問うて云く、何をもってかこれをしる。答えて云く、彼の伝を見るに云く、「今、畏(い)(善無畏三蔵)の遺形(いぎょう)を観るに、漸(ようや)く、加(ますます)縮小し、黒皮(こくひ)、隠隠(いんいん)として、骨、其れ露(あらわ)なり」、等、云云。彼の弟子等は、死後に地獄の相の顕われたるをしらずして、徳をあぐなどをもへども、かきあらはせる筆は、畏(い)が失(とが)をかけり。死してありければ、身、やふやく、つづ(縮)まり、ちひ(小)さく、皮はくろし、骨あらはなり、等、云云。人、死して後、色の黒きは、地獄の業(ごう)と定むる事は、仏陀の金言(きんげん)ぞかし。善無畏(ぜんむい)三蔵の地獄の業(ごう)はなに事ぞ。幼少(ようしょう)にして、位をすてぬ。第一の道心なり。月氏(がっし)、五十余箇国を修行せり。慈悲の余りに、漢土にわたれり。天竺(てんじく)・震旦(しんたん)・日本、一閻浮提(いちえんぶだい)の内に、真言を伝へ、鈴(れい)をふる、此の人の徳にあらずや。いかにして、地獄に堕ちけると、後生(ごしょう)をおもはん人人は、御(おん)尋ねあるべし。
又、金剛智(こんごうち)三蔵は、南天竺の大王の太子なり。金剛頂(こんごうちょう)経を漢土にわたす。其の徳、善無畏のごとし。又、互(たが)いに、師となれり。而(しか)るに、金剛智(こんごうち)三蔵、勅宣(ちょくせん)によて、雨の祈りありしかば、七日が中(うち)に雨下(ふ)る。天子、大に悦ばせ給うほどに、忽(たちま)ちに、大風吹き来る。王臣等、けうさめ給いき。使をつけて、追はせ給いしかども、とかう(兎角)のべて、留りしなり。結句は、姫宮(ひめみや)の御死去ありしに、いのりをなすべしとて、御身の代に、殿上の二(ふたり)の女、七歳になりしを、薪(たきぎ)につみこめて、焼き殺せし事こそ、無慚(むざん)にはおぼゆれ。而(しか)れども、姫宮(ひめみや)もいきかへり給はず。
不空(ふくう)三蔵は、金剛智(こんごうち)と月支(がっし)より御ともせり。此等の事を不審とやおもひけん。畏(い)と智と入滅の後、月氏に還(かえ)りて、竜智(りゅうち)に値い奉り、真言を習いなをし、天台宗に帰伏(きふく)してありしが、心計(ばか)りは帰えれども、身はかへる事なし。雨の御いのりうけ給わりたりしが、三日と申すに雨下る。天子、悦ばせ給いて、我れと御布施(ごふせ)ひかせ給う。須臾(しゅうゆ)ありしかば、大風、落ち下りて、内裏(だいり)をも吹きやぶり、雲閣(うんかく)・月卿(げっけい)の宿所、一所(ひとところ)もあるべしともみへざりしかば、天子、大に驚きて、宣旨(せんし)なりて、風をとどめよ、と、仰せ下さる。且(しばら)くありては、又吹き、又吹き、せしほどに、数日が間、やむことなし。結句(けっく)は、使をつけて、追うてこそ、風もやみてありしか。
此の三人の悪風は、漢土・日本、の、一切の真言師の大風なり。さにてあるやらん。去(い)ぬる、文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂の加賀法印、東寺第一の智者の、雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏(ぜんむい)・金剛智・不空、の悪法を、すこしもたがへず伝えたりけるか、心にくし、心にくし。
弘法大師は、去(い)ぬる、天長元年の二月、大旱魃(かんばつ)のありしに、先(さき)には、守敏(しゅびん)、祈雨(あまごい)して、七日が内に雨を下す。但(ただ)、京中にふりて、田舎にそそがず。次に、弘法、承取(うけと)りて、一七(いちしち)日に雨気(あまけ)なし、二七日に雲なし。三七日と申せしに、天子より、和気(わけ)の真綱(まつな)を使者として、御幣(ごへい)を神泉苑(しんせんえん)にまいらせたりしかば、天雨、下る事、三日。此れをば、弘法大師、並に、弟子等、此の雨をうばひとり、我が雨として、今に四百余年、弘法の雨という。慈覚大師の夢に、日輪をい(射)しと、弘法大師の大妄語(もうご)に云く、弘仁(こうにん)九年の春、大疫(たいえき)をいのりしかば、夜中に、大日輪、出現せり、と、云云。成劫(じょうこう)より、已来(このかた)、住劫(じゅうこう)の第九の減(げん)、已上(いじょう)、二十九劫が間に、日輪、夜中に出でしという事なし。慈覚大師は、夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に、日輪をいるとゆめにみるは、吉夢という事有りやいなや。修羅(しゅら)は、帝釈をあだみて、日天をいたてまつる。其の矢、かへりて、我が眼にたつ。殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は、日天を的(まと)にいて、身を亡す。日本の神武天皇の御時、度美長(とみのおさ)と五瀬命(いせのみこと)と合戦ありしに、命(みこと)の手に矢たつ。命(みこと)の云く、我はこれ、日天(ひのかみ)の子孫(うまご)なり。日に向い奉りて、弓をひくゆへに、日天のせめをかをほれり、と、云云。阿闍世(あじゃせ)王は、邪見をひるがえして、仏に帰(き)しまいらせて、内裏(だいり)に返りて、ぎょしん(御寝)なりしが、おどろいて諸臣に向って云く、日輪、天より地に落つとゆめにみる。諸臣の云く、仏の御入滅か、云云。須跋陀羅(しゅばつだら)がゆめ、又、かくのごとし。我が国は、殊(こと)に、いむべきゆめなり。神をば天照という。国をば日本(ひのもと)という。又、教主釈尊をば、日種(にっしゅ)と申す。摩耶(まや)夫人、日をはらむとゆめにみて、まうけ給える太子なり。慈覚大師は、大日如来を叡山に立て、釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて、法華経の三部の敵となせしゆへに、此の夢、出現せり。
例せば、漢土の善導(ぜんどう)が、始めは、密州(みっしゅう)の明勝(みょうしょう)といゐし者に値(あ)うて、法華経をよみたりしが、後には、道綽(どうしゃく)に値うて、法華経をすて、観経(かんきょう)に依りて疏(しょ)をつくり、法華経をば、「千中無一」、念仏をば、「十即十生・百即百生」、と、定めて、此の義を成(じょう)ぜんがために、阿弥陀仏の御前にして、祈誓(きせい)をなす。仏意(ぶっち)に叶(かな)うやいなや。「毎夜、夢の中に、常に、一(ひと)りの僧有りて、来(きた)って指授(しなん)す」、と、云云。乃至(ないし)、「一(もっぱら)経法(きょうほう)の如くせよ。乃至(ないし)、観念法門経」、等、云云。法華経には、「若(も)し、法を聞く者有れば、一として成仏せざる無し」、と。善導(ぜんどう)は、「千中無一」、等、云云。法華経と善導とは水火なり。善導は、観経をば、「十即十生・百即百生」、と。無量義経に云く、観経は、「未(いま)だ、真実を顕(あらわ)さず」、等、云云。無量義経と楊柳房(ようりゅうぼう)(善導、柳の枝に縄をつけ首をつり、転倒、狂死した)とは、天地なり。此れを、阿弥陀仏の僧と成りて来りて、汝が疏(しょ)は、真なりと証し給わんは、あに真事(まごと)ならんや。抑(そもそも)、阿弥陀は、法華経の座に来りて、舌をば出(いだ)し給はざりけるか。観音(かんのん)・勢至(せいし)は、法華経の座には、なかりけるか。此れをもって、をもへ。慈覚大師の御夢は、わざわひなり。”

(2005.05.23)
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