-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- appeal-本筋の道理
appeal

銀行からの献金が明るみに出た首相、郵政関連法案を可決!

医療制度改革関連法案、強行採決、デフレの中、逆行の国民負担!

官僚主義天国(組織利用主義天国)にとって個人情報は飯の種、役人に処罰なしで、住基ネット実施へ!

今秋には、”有事法案”、を成立させるという!

アメリカの核の傘の下にある日本の立場で、 日本に対する核攻撃の、”報復核攻撃”、を、 アメリカに確認したというのか!

官僚主義偽善者天国万歳!

”神札(国家神道、軍国主義、国家主義の象徴としての)を受け取った坊主の裏切り”、で、国家神道、軍事政権に捕らえられ、獄死したのは誰で、

”そのために、本堂とともに焼け死んだ坊主”、は、誰で、

”恩師のかたきの、(師の)坊主の裏切りと、宗教を破壊の道具に使う、国家神道、軍国全体主義、に怒った”、のは、誰で、

”原爆投下は悪魔の所業”、と訴えたのは、誰で、

”ガンジーの非暴力主義は共通の理念”、と、訴えたのは、誰で、

これらが本筋ならば、

””平和憲法”、の下で、赤んぼうのような法律をつくって、 ”竹やり”、で、テロ、や、戦争、と戦う、ような、”生兵法”、細い導火線をわざわざ引いてきて、”原爆”、に繋(つな)ぎ、軍拡、憲法9条改正、信教自由の統制、徴兵制、核保有、をもくろむ靖国族と組んで、それを助長する、ような、”生兵法”、の、”有事法”、をつくること。”

が、”本筋の道理”、なのか、

それとも、

”2度までもの、”原爆”、の洗礼を受けた、特異な国家として、この優れた、 ”平和憲法”、の下で、”平和国家”、としての、特異な(いずれこれが常識になる)(各国の憲法に、” 戦争放棄”、を盛り込んでごらんなさい)、2度までもの、”原爆”、の洗礼を受けた、” 戦争放棄”、の国家として、平和で、健全な、国造りに邁進すべきだ。”

というのが、”本筋の道理”、なのか。

政権の中枢、靖国族から、有事法関連で、憲法9条改正、信教自由の統制、徴兵制、核保有容認、等の発言が相次ぐ、極めて危険な、 靖国軍拡全体主義路線、に、何故、恩師のように、反対の側に立って、怒って、反対しない!

非道理が先をいって、筋が通らないのは、もう、その、”正義”、が破壊されているからで、その善は偽善。

”賢王の世には道理かつべし。愚主の世に非道先をすべし。聖人(しょうにん)の、世に法華経の実義、顕るべし等と心うべし。”(開目抄、編年体御書、p423)

かって、下衆(げす)の淫乱坊主の頭に住んでいた、”第六天の魔王”、は、もう、とっくに、もっと堅牢な、もっと居心地のいい、居場所をみつけ、その黄金の、”メンツ”、に居直り、本領を発揮している。

黄金の、”メンツ”、には、どんどん、黄金を付け足してやりましょう。

””私”、は、ドロをかぶり、自分は花を咲かせずに、種を蒔いてまいります”、と言っていた、黄金の、”私”、に、どんどん、黄金を着せ、どんどん、花を咲かせてやりましょう。

どうやら、ドロの代わりに黄金で着飾り、花を咲かせたい、らしいので。

”ドロをかぶり、自分は花を咲かせずに、種を蒔いてまいります”、と、言いながら、 重い、不自由な、黄金の、”メンツ”、にこだわり、その花を咲かせようとしている、”愁傷”、な、”私”。

その黄金の、”メンツ”、のために、黄金の、”メンツ”、を非難するものは、すべて敵、すべて打ち壊せとばかりに、道理、筋を通す、善人、市民達を敵に回して、善の反対陣営(悪)となり(真言化)、

そして、その黄金の、”メンツ”、は、間違いを認めず、道理を曲げ、権門の功績を盾に、それを正当化し、押し通し、自分自身(善)を裏切り、他者(善)を裏切り、恩師(善)を裏切り、極善の、”正義”、をも破壊して、悪(官僚主義)に化粧され、善と悪との、”けじめ”、がつけられず、善を分断させて、虚無の闇をつくり出す。

”予、日本の体を見るに、第六天の魔王、智者の身に入りて正師を邪師となし、善師を悪師となす”(最蓮房御返事、編年体御書、p478)

”日蓮御房は師匠にておはせども余(あまり)にこはし、我等はやはらかに法華経を弘むべし”(佐渡御所、編年体御書、p475)

”我が身は正直にして世間・出世の賢人の名をとらんと存ずれども・悪人と親近すれば自然(じねん)に十度に、二度・三度・其の教に随ひ以て行くほどに、終(つい)に悪人になるなり”(最蓮房御返事、編年体御書、p479)

”在在諸仏土、常与師倶生”(法華経、化城喩品第七)、とは、

””私”、は、常に、師とともに生まれ、その、”私”、が、”凡夫”(善悪)、のときは、師は、他者(善悪)の、”私”、と顕れ、その、”私”、が、”菩薩”、のときは、師は、善師(仏)の、”私”、と顕れ、その、”私”、が、”仏”、のときは、師は、悪師(提婆達多)の、”私”、と顕れる(提婆品の意義)”、

ということ。

その善悪を分別し、悪師(悪)を呵責できなければ、その、”私”、は、”仏”、にもなれず、”菩薩”、にもなれず、”凡夫”、にもなれず、一気に、師弟ともに地獄に落ちる。

(2002.07.28)
next
back
index
home

-----BEGIN PGP SIGNATURE----- Version: 2.6.3ia Charset: noconv iQEVAwUBPVqPC7mOg78EYhglAQG7HQf/dAmV0sbBE1tjaXemGaCfC3ObydigNEDy DCGEvr35J1eX/KsIeGUWckHQk33a5aQP+t2NBUkalcKPWKKH8XL8MY/RyhgVCpMp 6SJd3akRkjpxy0LXyXuo209ML7z16/7yat3ashEgX5vjorvZCe1eNAbg84iVN6rq 8Oli2rpoyzvdnGTYmdD1ERk4engnh1ICR5sUSjbF4HDFvWiRI0CKMwk9oA6cjE9J +A92Efwi6Ttl/cQigIpi8O1N0DUEl5DruxQa30CZ03cFdYoA+YDGPlPVPipovVrj yrCUN3pYBkGSJEypl4ZcaX1piYoBW10VfYB9p/x5r1aSmL3ZNEjTYA== =6DGo -----END PGP SIGNATURE-----