appeal

”法華本門宗血脈相承事、本因妙の行者、日蓮、之を記す。

予が外用(げゆう)の師、伝教大師、生歳四十二歳の御時、仏立寺[天台山仏隴寺]の大和尚(だいわじょう)に値(あ)い奉(たてまつ)り、義道を落居(らっこ)し、生死一大事の秘法を決したもうの日、大唐の貞元(ていげん)二十一年[太歳乙酉(きのととり)]、五月三日、三大章疏(しょうじょ)を伝え、各(おのおの)七面七重の口決を以(もっ)て、治定(じじょう)し給えり。所謂(いわゆる)、玄義七面の決とは、正釈五重列名に約して決したもう。
一に、依名判義(えみょうはんぎ)の一面。名とは、法の分位に於いて、施設(せせつ)す。体とは、宰主(さいしゅ)を義と為す。宗とは、所作の究竟(くきょう)なり。受持本因の所作に由って、口唱本果の究竟を得。用とは、証体、本因本果の上の功能徳行なり。教とは、誡を義と為す。誡とは、本の為の迹(しゃく)為(な)れば、迹は、即ち、有名無実、無得道なるを、実相の名題は、本迹、同じければ、本迹一致、と、思惟す可き事を、大に、誡(いましめ)んが為に、三種の教相を起(た)て、種・熟・脱、の論不論を立つる者なり。経文、解釈(げしゃく)、明白なり。此くの如く、文文・句句、の名、妙正の深義、本迹勝劣の本意を、顕し給う者なり。然(しか)りと雖(いえど)も、天台・伝教、の御弘通(ぐずう)は、偏(ひとえ)に、理の上の法相、迹化付属、像法の理位、観行五品の教主、なれば、迹を表と為して、衆を救い、本を隠して、裏に用る者なり。甚深(じんじん)、甚深、秘す可し、秘す可し。
二に、仏意(ぶっち)・機情、二意の一面。仏意は、観行・相似、を本と為し、機情は、理即名字を本と為す。何(いず)れも、体用を離れず。体用は、法華の心智に依って、一代五時の、次第・浅深、を開拓す。次に、機情とは、大通結縁の衆の為に、四味の調養を設け、法華に来入す。本迹二門、乃至(ないし)、文文・句句、此の二意を以て、分別す可き者なり。
三に、四重浅深の一面。名の四重有り。一には、名体無常の義。爾前の、諸経・諸宗、なり。二には、体実名仮。迹門、始覚無常、なり。三には、名体倶実。本門、本覚常住なり。四には、名体不思議。是れ、観心直達の、南無妙法蓮華経、なり。湛然(たんねん)の云く、「雖脱在現(すいだつざいげん・)具騰本種(ぐとうほんしゅ)」、云云。次に、体の四重とは、一に、三諦(さんたい)隔歴(きゃくりゃく)の体。爾前権教なり。二に、理性円融の体。迹門十四品なり。三に、三千本有(ほんぬ)の体。本門十四品なり。四に、自性不思議の体。我が内証の寿量品、事行の一念三千、なり。次に、宗の四重とは、一に、因果異性の宗。方便権教なり。二に、因果同性の宗。是れ、迹門なり。三に、因果並常の宗。即ち、本門なり。四に、因果一念の宗。文に云く、「芥爾(けに)も心有れば、即ち、三千を具す」、と。是れ、即ち、末法純円、結要(けっちょう)付属、の妙法なり、云云。次に、用の四重とは、一に、神通幻化の用。今経已前に明かす所の、仏・菩薩、出仮利生(しゅっけりしょう)の事。二に、普賢色身の用。即ち、一身の中に於て、十界を具する事なり。本迹、一代五時に亘(わた)る。三に、無作常住の用。証道八相有り。無作自在の事なり。四に、一心の化用。或説己身等なり。次に、教の四重とは、一には、但顕隔理(たんけんきゃくり)の教。権小なり。二には、教即実理の教。迹門なり。三には、自性会中の教。応仏の本門なり。四には、一心法界の教。寿量品の文の底の法門、自受用報身如来の真実の本門、久遠一念の、南無妙法蓮華経。雖脱在現・具騰本種、の勝劣、是なり。
第四に、八重浅深の一面なり。名の八重とは、一に、名体永別の名。二に、名体不離の名。三に、従体流出の名。四に、名体具足の名。五に、本分常住の名。六に、果海妙性の名。七に、無相不思議の名。八に、自性己己(ここ)の名。乃至(ないし)、教、知る可し、云云。文に任せて思惟す可きなり。
第五に、還住当文(げんじゅうとうもん)の一面。四八の浅深を以て、本迹勝劣を知る可し。
第六に、但入己心の一面。始め、大法東漸より、第十の判教に至るまで、文の生起を閣(さし)おき、一向に、心理の勝劣に入れて、正意を成ず可し。謂(いわ)く、大法とは、即ち、行者の己心の異名なり、云云。釈の意は、文義の広博を離れて、首題の理を専(もっぱら)にすと釈し給うなり。
第七に、出離生死の一面。心は、一代応仏の寿量品を迹と為し、内証の寿量品を本と為し、釈尊、久遠、名字即の身と位とに約して、南無妙法蓮華経、と唱え奉る、是を出離生死の一面と名く。本迹、約身約位の釈、之を思う可き者なり、已上。
玄文、畢(おわ)る。
文句の七面の决とは、一に、依名(えみょう)の一面。其の義、上の如し。二に、感応の一面。三時弘経に亘(わた)る可し。爾前迹門、の正像二千年、弘経の感応より、本門、末法、弘通の感応は、真実、真実、勝るなり。三に、四教の一面。四に、五時の一面。五に、本迹の一面。六に、体用の一面。七に、入己心の一面。悉(ことごと)く、皆、其の心、前に同じ。智威(ちい)大師の伝には、玄義・文句、の両部には、爾前迹門に、各三十重の浅深を以て、口决し給えり。具(つぶさ)には、伝教大師、七面决の如し。
又、摩訶止観一部には、十重顕観(けんかん)を立てて、是を通じ給えり。一は、待教(たいきょう)立観。爾前・本・迹、の三教を破して、不思議実理の、妙法蓮華経、の観を立つ。文に云く、「円頓者初縁実相」、と、云云。迹門を理具の一念三千と云う。脱益の法華は、本迹共に迹なり。本門を事行の一念三千と云う。下種の法華は、独一の本門なり。是を不思議実理の妙観と申すなり。二に、廃教立観。心は、権教、並に、迹執を捨て、本門首題の理を取って、事行に用いよ、となり。三に、開教顕観。文に云く、「一切諸法・本是仏法、三諦の理を具するを名けて仏法と為す。云何(いか)んぞ、教を除かん」、云云。文意は、観行理観の一念三千を開して、名字事行の一念三千を顕す。大師の深意、釈尊の慈悲、上行所伝の秘曲、是なり。四に、会教顕観。教相の法華を捨てて、観心の法華を信ぜよ、と。五に、住不思議顕観。文に云く、「理は造作に非ず。故に、天真と曰う。証智円明なるが故に、独朗と云う」、云云。釈の意は、口唱(くしょう)首題の理に造作無し。今日、熟脱の本迹二門を迹と為し、久遠名字の本門を本と為す。信心強盛にして、唯(ただ)、余念無く、南無妙法蓮華経、と、唱え奉れば、凡身即仏身なり。是を、天真独朗の即身成仏と名く。
問うて曰く、前代に、此の法門を知れる人、之、有りや。答えて曰く、之、有り。求めて云く、誰人ぞや。示して云く、釈尊、是なり。尋ねて云く、仏を除き奉って、余に之を知れる、人師・論師、有りや。答えて曰く、天台の云く、「天親・竜樹、内鑒冷然(ないがんれいなん)・外適時宜(げちゃくじぎ)」、と。今日、南無妙法蓮華経、は、南岳・天台・妙楽・伝教、の、「内鑒冷然・外適時宜」、なり。内鑒冷然・外適時宜、の修行の日は、本迹一致なり。有智無智を嫌わず、円頓者初縁実相の理は、造作に非ざる故に、天真と曰う。証智円明の故に、独朗と日う、と、云って、理位観行に趣(おもむ)かしめ、利益を為し、末法の時を待つ者なり。故に、天台、云く、「但、当時、大利益を獲るのみに非ず、後五百歳、遠く妙道に霑(うるお)う」、と、云云。天台・章安・妙楽・伝教、等、の、大聖は、内証は、本迹勝劣、外用は、本迹一致なり。其の故は、教相も観心も、相似観行解了の人師、時機亦像法(じきやくぞうほう)なり。付属は、即、妄授余人(もうじゅよにん)、御身も亦、迹化の衆、観音・妙音・文殊・薬王、等、の、化身なり。今、末法は、本化の薩?(さった)・上行、等、の、出世の境、本門流宣の時尅(じこく)なり。何ぞ、理観を用いて、事行を修せざらんや。予が所存は、内証・外用、共に、本迹勝劣なり。若し、本迹一致と修行せば、本門の付属を失う、物怪(もっけ)なり。
本迹の不同は、処処に、之を書す。然(しか)りと雖(いえど)も、宿習、拙き者、本迹に迷倒せんか。若し、本迹勝劣を知らずんば、未来の悪道、最も不便なり。宿業を恥じず。還って、予を恨む可きか。我が弟子等の中にも、天台・伝教、の解了(げりょう)の理観を出でず、本迹に就て、一往、勝劣、再往、一致、の謬義(みょうぎ)を存して、自他を迷惑せしめんの条、宿習の然らしむる所か。閻浮提第一の秘事為(た)りと雖も、万年救護の為に、之を記し留る者なり。我が未来に於て、予が仏法を破らん為に、一切衆生の元品の大石、第六天の魔王、師子身中の蝗蟲(いなむし)と成って、名を日蓮に仮りて、本迹一致と云う邪義を申し出して、多の衆生を、当に、悪道に引くべし。若し、道心、有らん者は、彼等の邪師を捨てて、宜(よろし)く、予が正義に随うべし。正義とは、本迹勝劣の深秘、具騰本種の実理なり。日蓮一期の大事なれば、弟子等にも、朝な夕なに教え、亦(また)、一期の所造等、悉(ことごと)く、此の義なり。然りと雖も、迹執を出でず、或は、軽[見惑]、或は、蔑(べつ)[思惑]、或は癡(ち)[塵沙惑]、或は、迷[無明惑]、故に、日蓮が立義を用いざるか。予が、教相・観心、は、理即・名字・愚悪・愚見、の為なり。
日蓮は、名字即の位、弟子檀那は、理即の位なり。上行所伝、結要(けっちょう)付属の行儀は、教観判乗・皆名字即、五味の主の修行なり。故に、教相の次第、要用に依る可し。唯(ただ)、大綱を存する時は、余は網目を事とせず、彼は、網目、此れは、大綱。彼は、網目の教相の主、此れは、大綱首題の主。恐くは、日蓮の行儀には、天台・伝教、も及ばず。何(いか)に況(いわん)や、他師の行儀に於てをや。唯、在世八箇年の儀式を移して、滅後、末法の行儀と為す。然りと雖も、仏は、熟脱の教主、某(それがし)は、下種の法主なり。彼の一品二半は、舎利弗等の為には、観心たり、我等凡夫の為には、教相たり。理即短妄(りそくたんもう)の凡夫の為の観心は、余行に渡らざる、南無妙法蓮華経、是なり。是くの如く、深義を知らざる僻人(びゃくにん)、出来(しゅったい)して、予が立義は、教相辺外と思う可き者なり。此等は皆、宿業の拙き、修因感果の至極せるなるべし。彼の天台大師には、三千人の弟子ありて、章安、一人、朗然なり。伝教大師は、三千人の衆徒を置く。義真、已後は、其れ無きが如し。今以て、此くの如し。数輩の弟子有りと雖も、疑心無く、正義を伝うる者は、希にして、一二の小石の如し。秘す可きの法門なり。
第六に、住教顕観。七に、住教非観。八に、覆教(ふきょう)顕観。九に、住教用観。十に、住観用教。此の五重は、上の五重の如し。思惟す可し。
問うて云く、本迹雖殊(ほんじゃくすいしゅ)不思議一、本迹の教に於て、別して、不思議の観理を顕わす、故に、と、云云。機情に約すれば、本迹に於て、久近の異、有る可し。是れ、一往の浅義なり。内証に約して、之を論ずれば、勝劣、有る可からず。再往の深義は、不思議一なり、云云。如何(いかん)が、意を得可けんや。答えて云く、住教顕観は、煩悩即菩提。住教非観は、法性寂然。覆教顕観は、名字判教。住教用観は、不思議一。住観用教は、以顕妙円、と申す。大事、是なり。教観不思議、天然本性の処に、独一法界の妙観を立つ。是を不思議の本迹勝劣と云う。亦(また)、絶対不思議の内証、不可得言語道断の勝劣は、天台・妙楽・伝教、の残す所、我が家の秘密、観心直達の勝劣なり。迹と云う名ありといえども、有名無実、本無今有の迹門なり。実に不思議の妙法は、唯、寿量品に限る故に、不思議一と釈するなり。迹門の、妙法蓮華経、の題号は、本門に似ると雖も、義理、天地を隔つ。成仏、亦、水火の不同なり。久遠名字の、妙法蓮華経、の朽木書(くちぎがき)なる故を、顕さんが為に、一と釈するなり。末学、疑網を残すこと勿(なか)れ。日蓮、霊山会上(りょうぜんえじょう)、多宝塔中に於て、親(まのあ)たり、釈尊より、直授し奉る、秘法なり。甚深(じんじん)、甚深、秘す可し、秘す可し、伝う可し、伝う可し。
摩訶止観、七面口决とは、依名判義(えもんはんぎ)、附文元意(ふもんがんい)・寂照一相・教行証・六九二識・絶諸思慮・出離生死、の一面(已上)。一切諸法・従本已来・不生不滅・性相凝然(しょうそうぎょうねん)・釈迦閉口(しゃかへいく)・身子絶言(いんしぜつごん)、云云。是は、迹門、天台止観の内証なり。本門、日蓮の止観は、釈迦は、口を開き、文殊は、言語(ことば)す。迹門、不思議・不可説、本門、不思議・可説、の証拠の釈、是なり。亦(また)、三大部に於て、一同十異・四同六異、之、有り。伝教 、仏立寺より之を口决す。一同とは、名同なり。十異とは、名同義異・所依異・観心異・傍正異・用教異・対機異・顕本理異・修行異・相承異・元旨異。四同とは、名同・義同・所依同・所顕同、なり。六異とは、釈異・大綱網目異・本末異・観心異・教内外観異・自行化他異、是なり。今、要を以て、之を言わば、迹本観心・同名異義、なり。始終・本末、共に、修行も、覚道も、時機も、感応も、皆、勝劣なり。
此の下、二十四番、勝劣なり。彼の本門は、我が迹門。彼の勝は、此の劣。彼の深義は、予が浅義。彼の深理は、此の浅理。彼が極位は、此の浅位。彼の極果は、此の初心。彼の観心は、此の教相。彼は、台星の国に出生す。此れは、日天の国に出世す。彼は、薬王。此れは、上行。彼は、解了の機を利す。此れは、愚悪の機を益す。彼の弘通は、台星所居の高嶺(こうれい)なり。此の弘経は、日王・能住、の高峰なり。彼は、上機に教え、此れは、下機を訓ず。彼は、一部を以て本尊と為し、此れは、七字を本尊と為す。彼は、相対開会を表と為し、此れは、絶対開会を表と為す。彼は、熟脱、此れは、下種。彼は、衆機の為に円頓者初縁実相と示し、此れは、万機の為に、南無妙法蓮華経、と、勧む。彼は、悪口・怨嫉、此れは、遠島・流罪。彼は、一部を読誦すと雖も、二字を読まざること之在り。此れは、文文句句、悉く、之を読む。彼は、正直の妙法の名を替えて、一心三観と名く。有の儘(まま)の大法に非ざれば、帯権の法に似たり。此れは、信謗彼此・決定成菩提、南無妙法蓮華経、と、唱えかく。彼は、諸宗の謬義(みょうぎ)を粗(ほぼ)書き顕すと雖も、未だ、言説せず。此れは、身命を惜まず、他師の邪義を糺(ただ)し、三類の強敵を招く。彼は、安楽・普賢、の説相に依り、此れは、勧持・不軽、の行相を用ゆ。彼は、一部に勝劣を立て、此れは、一部を迹と伝う。彼は、応仏のいきをひかう。此れは、寿量品の文底を用ゆ。彼は、応仏昇進の自受用報身の、一念三千・一心三観。此れは、久遠元初の自受用報身、無作本有の妙法を直に唱う。
此れ等の深意は、迹化の衆、普賢・文殊・観音・薬王、等、の、大菩薩にも付属せざる所の大事なれば、知らざる所の秘法なり。況や、凡師に於てをや。
若し、末法に於て、本迹一致と修行し、所化等に教ゆる者ならば、我が身も、五逆罪を造らずして、無間に堕ち、其れに随従せんともがらも、阿鼻に沈まん事、疑無き者なり。此の書、一見の人人は、理[普賢]・智[文殊]、一言の薩?(さった)、生死絶断の際、定光覚悟の大菩薩なり。伝教、云く、「文殊の利剣は、六輪に通じ、十二の生類を切断す。一刀を下して[妙法]、万方に勅するに、自然に、由(な)お、三諦を出だす。見聞覚知に明なり」。此の一言の三際を示すに、一言に如かず。若し、未達の者も、一頌を開くに[題目]、三般[三諦]、同じく通知せざること無し。生仏、自ら、一現なる。是を、「一言の妙旨、一教の玄義」、と、謂う、云云。天台の云く、「一言三諦・刹那成道・半偈成道」、と、云云。伝教の云く、「仏界の智は、九界を境と為し、九界の智は、仏界を境と為す。境智、互に、冥薫して、凡聖、常恒(じょうごう)なる。是を刹那成道と謂う。三道即三徳と解れば、諸悪、?(たちまち)に、真善なる。是を半偈成道と名く」。今、会釈(えしゃく)して云く、諸仏菩薩の定光三昧も、凡聖一如の証道刹那半偈の成道も、我が家の勝劣修行の、南無妙法蓮華経、の一言に、摂し尽す者なり。此の血脈を列ぬる事は、末代浅学の者の、予が仮字の消息を蔑如し、天台の漢字の止観を見て、眼目を迷わし、心意を驚動し、或は、仮字を漢字と成し、或は、止観明静・前代未聞、の見に耽(ふけ)り、本迹一致の思を成す。我が内証の寿量品を知らずして、止観に同じ。但、自見の僻見(びゃっけん)を本として、予が立義を破失して、悪道に堕つ可き故に、天台、三大章疏の奥伝に属す。天台・伝教、等、の、秘し給える正義、生死一大事の秘伝を書き顕し奉る事は、且(かつ)は、恐れ有り、且は、憚(はばか)り有り。広宣流布の日、公亭に於て、応に、之を披覧し奉るべし。会通を加える事は、且は、広宣流布の為、且は、末代浅学の為なり。又、天台・伝教、の釈等も、予が真実の本懐に非ざるか。未来、嬰児の弟子等、彼を本懐かと思うべきものか。去(いぬ)る、文永の免許の日、「爾前迹門の謗法を対治し、本門の正義を立て被(らる)れば、不日に豊歳ならむ」、と、申せしかば、聞く人毎(ごと)に、舌を振い、耳を塞ぐ。其の時、方人(かたうど)、一人も無く、唯(ただ)、我と[日蓮]、与我(よが)[日興](唯我与我)、計(ばか)りなり。問うて云く、寿量品文底の大事、と云う、秘法、如何。答えて云く、唯密の正法なり。秘す可し、秘す可し。一代応仏のいきをひかえたる方は、理の上の法相なれば、一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞ、と、得意せしむる事を、脱益の文の上と申すなり。文の底とは、久遠実成の名字の妙法を、余行にわたさず、直達の正観、事行の一念三千の、南無妙法蓮華経、是なり。権実は、理[今日、本迹理]なり。本迹は、事[久遠、本迹事]なり。亦(また)、権実は、約智約教[一代応仏本迹]。本迹は、約身約位[名字身][久遠本迹]。亦、云く、「雖脱在現・具騰本種」、といへり。釈尊、久遠、名字即の位の御身の修行を、末法、今時、日蓮が名字即の身に移せり。理は、造作に非ず。故に、天真と日い、証智円明の故に、独朗と云うの行儀、本門立行の血脈、之を注す。秘す可し、秘す可し。
又、日文字の口伝、産湯の口決、二箇は、両大師の玄旨にあつ。本尊七箇の口伝は、七面の決に之を表す。教化弘経の七箇の伝は、弘通者の大要なり。又、此の血脈、並に、本尊の大事は、日蓮、嫡嫡(ちゃくちゃく)、座主、伝法の書、塔中相承の稟承(ほんじょう)、唯授一人の血脈なり。相構え、相構え、秘す可し、秘す可し、伝う可し。法華本門宗、血脈相承、畢(おわ)んぬ。

  弘安五[太歳壬午(みずのえうま)]十月十一日               日蓮 在御判

(本因妙抄、編年体御書P1713、御書P870)

(2005.08.06)
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