appeal

いじめ、差別、暴力、そして、犯罪、放蕩、遊び、は、 それぞれに、それぞれの質と量とに限度があり、その限度に応じて、”けじめ”、がつけられるべきで、 その限度は、体制、制度、考え方によって変わるとはいうものの、 そこにも(その変わる度合いにも)人間としての限度があって、”けじめ”、が当然つけられるべき限度なのに、その、”けじめ”、がつけられなければ、ますます、いじめ、差別、暴力、犯罪、の、”けじめ”、が骨抜きにされ、ますます、世上は荒(すさ)んでしまう。どんなに、”大物”、だろうが、小物だろうが、”大物”、なら、”大物”、なりの、 より重い、”けじめ”、を、小物なら小物なりの、それなりの、”けじめ”、を、つけるべきで、その様子を、あんまり人を馬鹿にした話が多過ぎるので、そんなら、俺ラも、いじめ、差別、暴力、犯罪、でも、 やってみようかと思っている者から、罪を悔いて人助けでもしようかと思っている者まで、が、 じっと見ているから、その、”けじめ”、をつけられない者達が、”大物”、であればあるほど、”けじめ”、をつけられない、つけさせない、その罪は重い。

いじめ、差別、暴力、犯罪、に貴重なエネルギーが使われて、貴重というのは、 そのエネルギーの源が、すべて、他者である、生命の犠牲に依って賄われているからで、 その貴重なエネルギーが、どこに、どう使われるかで、(犯罪から、放蕩、遊び、建設的な仕事までの、どこに、どう使われるかで)、この世界は豊かにもなるし、貧しくもなる。 昔はいざ知らず、上に立つ者達が、建設的な仕事、を、”立て前”、として手抜きをし、放蕩、遊び、いいかげん、を、”本音”、としてきてしまっているのが、今の日本の姿で、その当然の報いとして、政治、経済、の文化のこの体たらくを世界にさらすことになる。中国の日本領事館で起きた亡命騒ぎも、どうしようもない、底抜けの、上に立つ者達のその精神性の貧しさを、ジャーナリスト達のカメラがとらえたもので、 そもそも、領事館側の防犯カメラが故意に止められていなかったなら(本当は動いていたかもしれないが)(どちらにしろ、責任逃れ、役人根性、役人のお仕事)、当然もっと真相がはっきりしたろうけれど、ともあれ、ジャーナリスト達のカメラが亡命者の生命を救い、領事館側の止められた防犯カメラが、なによりも、日本の、上に立つ者達の精神性の貧しさを写し出し、この貧弱な精神の、役人、官僚、政治家、達が、今、やっき、になって 立法化しようとしている、重要法案(有事法案、情報規制法案)なるものも、どうやら噴飯ものだ、ということもはっきりしてきた。つまり、あの執拗なジャーナリスト達のカメラ(情報)がなかったら、亡命者達は助からなかっただろうし、止められていた防犯カメラ(情報操作)が暴かれなかったなら、あの精神性の貧しい行政官(政治家、官僚、役人、軍人)達が、”有事”、と称した、”有事”、の時に、市民の屍(しかばね)を盾に(犠牲の上に)、その下に隠れて、自分達だけが、生き延びようと(いい思いをしようと)していることが、まだ、半信半疑のまま、ゴリ押しされたかもしれない(ゴリ押しを阻止しよう!)、ということだ。

そんな、いじめ、差別、暴力、犯罪、汚職、の土壌からは、いつも、こんな囁きが聞こえてくる。

人間を殺して、犠牲にして、何が悪い、
人間も、動物も、より弱い生き物を殺して、食べているじゃないか!

この疑問を、あの、精神性の貧しい、上に立つ者達には投げかけないで、 そこいら辺の、大工の棟梁にでもぶつけてみよう。

ばか野郎!

生意気なことをぬかしやがって!
てめえらは、何のために生きてるんだ!
死ぬために生きているんか!
死ぬためだったら、 はじめっから、土のままでいいじゃないか!
食うために生きてるんか!
食うためだったら、 虫けらのままでいいじゃないか!
人間様に生まれてきたのは、それは、それは、のっぴきならねえわけがあるんだろうよ.
その、のっぴきならねえわけがあって生まれてきた人間様を、殺してどこが悪いだと!
この、大ばか野郎!

つまり、いくらかボンクラでない学者さんに翻訳してもらうと、

生命の目的(或いは、存在の理由)が、死であるならば、物質のままであり続けるのが合理的であり、 生命の目的(或いは、存在の理由)が、他者を食べること、そして、そのエネルギーで子孫を増やすことであれば、 なにも、人間にまで進化(或いは、出現)しなくとも、アメーバのままであり続けるほうが合理的であり、 生命の目的(或いは存在の理由)が何であれ、生命が人間にまで進化(或いは、出現)したのは、 その生命の目的(或いは、存在の理由)が、人間でなければ達成(或いは、充足)できないからであり、それは、 間違いなく、その目的(或いは、存在の理由)は、物質のそれよりも、アメーバのそれよりも、動物のそれよりも、 より生命の真の目的(或いは、存在の理由)に近いものであることは(そのために進化(或いは、出現)してきたのだから)間違いないことだ、から、その生命にとって崇高な、その目的(或いは、存在の理由)を担い、達成(或いは、充足)しようとしている、人間の 、あなたの、”私”、の、”いのち”、を、その人間しか持ち得ない、為し得ない、生命のその権利とともに、奪うことが、生命にとって、より悪であることは、これもまた、間違いないことだ。

と、言っている。

森へ

to the woods

(2002.05.09)
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