appeal

”問うて云く、釈迦、一期(いちご)の説法は、皆、衆生のためなり。衆生の根性、万差なれば、説法も、種種なり。何(いず)れも、皆、得道なるを本意とす。然(しか)れば、我が有縁の経は、人の為には、無縁なり。人の有縁の経は、我が為には、無縁なり。故(ゆえ)に、余経の念仏によりて、得道なるべき者の為には、観経等は、めでたし。法華経等は、無用なり。法華によりて成仏得道なるべき者の為には、余経は無用なり。法華経は、めでたし。「四十余年・未顕真実」、と、説くも、「雖示種種道(すいじしゅじゅどう)・其実為仏乗(ごじついぶつじょう)」、と、云うも、「正直捨方便・但説無上道」、と、云うも、法華、得道の機の前の事なり、と、云う事、世、こぞってあはれ、然(しか)るべき道理かな、なんど、思へり。如何(いかが)心うべきや。若(も)し、爾(しか)らば、大乗・小乗、の、差別もなく、権教・実教、の、不同もなきなり。何(いず)れをか、仏の本意と説き、何れをか、成仏の法と説き給えるや、甚(はなは)だ、いぶかし、いぶかし。答えて云く、凡(およ)そ、仏の出世は、始めより、妙法を説かんと思(おぼ)し食(め)ししかども、衆生の機縁、万差にして、ととのをらざり(不調)しかば、三七日の間、思惟(しゆい)し、四十余年の程、こしらへ、おおせて、最後に、此の妙法を説き給う。故に、「若(も)し、但(ただ)、仏乗を讃(さん)せば、衆生、苦に没在し、是の法を信ずること能(あた)わず。法を破して、信ぜざるが故に、三悪道に墜ちん」、と、説き、「世尊の法は、久くして後、要(かな)らず、当(まさ)に、真実を説きたまうべし」、とも、云へり。此の文の意(こころ)は、始めより、此の仏乗を説かんと思(おぼ)し食(め)ししかども、仏法の気分もなき衆生は、信ぜずして、定(さだ)めて、謗(そし)りを至さん。故に、機をひとしなに、誘へ給うほどに、初めに、華厳・阿含(あごん)・方等・般若、等、の、経を、四十余年の間とき、最後に、法華経をとき給う時、四十余年の座席にありし身子(舎利弗)・目連、等、の、万二千の、声聞、文殊・弥勒、等、の、八万の菩薩、万億の輪王等、梵王・帝釈、等、の、無量の天人、各(おのおの)、爾前(にぜん)に聞きし処の法をば、「如来の無量の知見を失えり」、と、云云。法華経を聞いては、「無上の宝聚(ほうじゅ)、求めざるに自ら得たり」、と、悦び給ふ。されば、「我等、昔より来(このかた)、数(しばしば)、世尊の説を聞きたてまつるに、未(いま)だ曾(か)って、是(か)くの如き、深妙の上法を聞かず」、とも、「仏、希有(けう)の法を説き給う。昔より未(いま)だ曾(か)って、聞かざる所なり」、とも、説き給う。此等の文の心は、四十余年の程、若干(じゃっかん)の説法を聴聞せしかども、法華経の様なる法をば、総(すべ)て、きかず。又、仏も、終(つい)に、説かせ給はずと、法華経を讃(ほめ)たる文なり。四十二年の聴(きき)と、今経の聴(きき)とをば、わけ(分)たくら(比)ぶべからず。然(しか)るに、今経を、それ、法華経、得道の人の為にして、爾前(にぜん)、得道の者の為には、無用なり、と、云う事、大なる誤りなり。をのづから、四十二年の経の内には、一機・一縁、の、為に、しつらう処の方便なれば、設(たと)い、有縁・無縁、の、沙汰(さた)は、ありとも、法華経は、爾前(にぜん)の経経の座にして、得益しつる機どもを押(おし)ふさねて、一純に調えて、説き給いし間、有縁・無縁、の、沙汰あるべからざるなり。悲しいかな、大小・権実、みだりがわしく、仏の本懐(ほんかい)を失いて、爾前(にぜん)、得道の者のためには、法華経、無用なり、と、云へる事を、能能(よくよく)、慎むべし、恐るべし。古(いにしえ)の徳一大師と云いし人、此の義を、人にも教へ、我が心にも存して、さて、法華経を読み給いしを、伝教大師、此の人を破し給ふ言に、「法華経を讃(さん)すと雖(いえど)も、還(かえ)って、法華の心を死(ころ)す」、と、責め給いしかば、徳一大師は、舌八にさけて、失(う)せ給ひき。
問うて云く、天台の釈の中に、「菩薩、処処、得入」、と、云う文は、法華経は、但(ただ)、二乗の為にして、菩薩の為ならず。菩薩は、爾前の経の中にしても、得道なると見えたり。若(も)し、爾(しか)らば、「未顕真実」、も、「正直捨方便」、等、も、総じて、法華経八巻の内、皆、以(もっ)て、二乗の為にして、菩薩は、一人も有るまじきと意(こころ)うべきか、如何(いかん)。答えて云く、法華経は、但(ただ)、二乗の為にして、菩薩の為ならず、と、云う事は、天台より已前、唐土に、南三北七と申して、十人の学匠の義なり。天台は、其の義を破し失(うせ)て、今は、弘まらず。若(も)し、菩薩なし、と、云はば、菩薩、是の法を聞いて、「疑網(ぎもう)、皆、已(すで)に、除く」、と、云える。豈(あに)、是れ、菩薩の得益なし、と、云わんや。それに、尚(なお)、鈍根の菩薩は、二乗とつれて、得益(とくやく)あれども、利根の菩薩は、爾前(にぜん)の経にて、得益す、と、云はば、「利根・鈍根、等しく、法雨を雨(ふら)す」、と、説き、「一切の菩薩の、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は、皆、此(この)経に属せり」、と、説くは、何(いか)に。此等の文の心は、利根にてもあれ、鈍根にてもあれ、持戒(じかい)にてもあれ、破戒にてもあれ、貴もあれ、賎もあれ、一切の、菩薩・凡夫・二乗、は、法華経にて、成仏、得道なるべし、と、云う文なるをや。又、法華、得益(とくやく)の菩薩は、皆、鈍根なりと云はば、普賢・文殊・弥勒・薬王、等、の、八万の菩薩をば、鈍根なりと云うべきか。其の外に、爾前(にぜん)の経にて、得道する利根の菩薩、と、云うは、何様(いかよう)なる菩薩ぞや。抑(そもそも)、爾前(にぜん)に、菩薩の得道と云うは、法華経の如き得道にて候か。其(それ)ならば、法華経の得道にて、爾前(にぜん)の得分にあらず。又、法華経より外の得道ならば、已今当の中には何(いず)れぞや。いかさまにも、法華経ならぬ得道は、当分の得道にて、真実の得道にあらず。故(ゆえ)に、無量義経には、「是の故に、衆生の得道、差別せり」、と、云い、又、「終(つい)に、無上菩提を成ずることを得じ」、と、云へり。文の心は、爾前(にぜん)の経経には、得道の差別を説くと云へども、終(つい)に、無上菩提の法華経の得道はなし、と、こそ、仏は説き給いて候へ。
問うて云く、当時は、釈尊、入滅の後、今に、二千二百三十余年なり。一切経の中に、何(いずれ)の経が、時に相応して、弘まり、利生も有るべきや。大集(だいしつ)経の五箇の五百歳の中の、第五の五百歳に、当時はあたれり。其の第五の五百歳をば、「闘諍堅固(とうじょうけんご)・白法隠没(びゃっぽうおんもつ)」、と、云って、人の心たけく、腹あしく、貪欲(どんよく)・瞋恚(しんに)、盛なれば、軍(いくさ)・合戦、のみ、盛にして、仏法の中に、先き先き、弘りし所の、真言・禅宗・念仏・持戒、等、の、白法は、隠没(おんもつ)すべし、と、仏、説き給へり。第一の五百歳、第二の五百歳、第三の五百歳、第四の五百歳、を、見るに、成仏の道こそ、「未顕真実」、なれ。世間の事法は、仏の御言(みことば)、一分も違(たが)はず、是(これ)を以(もっ)て、之(これ)を思うに、当時の、闘諍堅固(とうじょうけんご)・白法隠没(びゃっぽうおんもつ)、の、金言も、違(たが)う事あらじ。若(もし)、爾(しか)らば、末法には、何(いずれ)の法も、得益あるべからず、何(いず)れの、仏・菩薩、も、利生あるべからず、と、見えたり、如何(いかん)。さて、もだ(黙止)して、何の、仏・菩薩、にも、つかへ奉(たてまつ)らず。何の法をも行ぜず。憑(たの)む方(かた)なくして、候べきか。後世をば、如何(いかん)が思い定め候べきや。答えて云く、末法、当時は、久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦仏・上行菩薩・無辺行菩薩、等、の、弘めさせ給うべき、法華経二十八品の肝心たる、南無妙法蓮華経、の、七字計(ばか)り、此の国に弘まりて、利生得益もあり、上行菩薩の御利生、盛んなるべき時なり。其の故は、経文、明白なり。道心、堅固にして、志あらん人は、委(くわし)く、是を尋ね、聞くべきなり。
浄土宗の人人、末法万年には、余経、悉(ことごと)く、滅し、弥陀(みだ)一教のみ、と、云ひ、又、当今、末法は、是れ、五濁(ごじょく)の悪世、唯、浄土の一門のみ有って、通入す可き路なり、と、云って、虚言(そらごと)して、大集(だいしつ)経に云く、と、引(ひけ)ども、彼の経に、都(すべ)て、此(この)文なし。其の上、あるべき様もなし。仏 の在世の御言(みことば)に、当今、末法五濁(ごじょく)の悪世には、但、浄土の一門のみ入るべき道なり、とは、説き給うべからざる道理、顕然(けんねん)なり。本経には、「当来の世、経道、滅尽し、特(ひと)り、此の経を留めて、止住する事、百歳ならん」、と、説けり。末法一万年の百歳とは、全く見えず。然(しか)るに、平等覚経・大阿弥陀経、を、見るに、仏滅後一千年の後の百歳と、こそ、意(こころ)えられたれ。然(しか)るに、善導が惑(まど)へる釈をば、尤(もっと)も道理と、人、皆、思へり。是(これ)は、諸(これ)僻案(びゃくあん)の者なり。但(ただ)し、心あらん人は、世間のことはりをもって、推察せよ。大旱魃(かんばつ)のあらん時は、大海が先にひるべきか。小河が先にひるべきか。仏、是(これ)を説き給うには、法華経は、大海なり。観経阿弥陀経等は、小河なり。されば、念仏等の小河の白法こそ、先にひるべし、と、経文にも、説き給いて候ひぬれ。大集(だいしつ)経の、「五箇の五百歳の中の、第五の五百歳、白法隠没(びゃっぽうおんもつ)」、と、云(いえる)と、雙観(そうかん)経に、「経道滅尽」、と、云(いえる)とは、但(ただ)一つ心なり。されば、末法には、始めより、雙観(そうかん)経等の経道、滅尽す、と、聞えたり。「経道滅尽」、と、云(いえる)は、経の利生の滅す、と、云う事なり。色(しき)の経巻、有るにはよるべからず。されば、当時は、経道滅尽の時に至って、二百歳に余れり。此の時は、但、法華経のみ、利生得益あるべし。”

(2005.06.15)
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