結局、あるものを守りたい人間と、そうでもない人間と。



より あるものを 守りたい人間とは、よりあるものを持っている人間であり、さらにより持っている人間で、さらにより悪くより多く持っている人間は、より搾取している側のより官僚主義の人間であり、



よりそうでもない人間とは、よりあるものを持っていない人間であり、さらにより悪くより持っていない人間は、より搾取されている側の人間であり、



前者はその環境をより強く守ろうとし(現実という脅威、防衛拡大、解釈で憲法まで真逆に変えてしまう)、後者はよりそうでもない。



前者は侵略者により敏感であり、後者はその侵略者を、もしかしたら解放者かもしれないと、より思う。



かくして、後者の側が圧倒的に多く、より官僚主義者に支配される国は、いとも簡単に侵略される。



そう、日本の官僚主義国は、すでにアメリカの官僚主義者に侵略されており、



侵略者としての中国は、アメリカの日本に対する搾取のための、より安全なアメリカ本土から長く伸びた釣り竿の先の針に付けられた大きな餌。



いざというときは、アメリカは、間違えて食いついたサメのその竿を手放せばいい。



ちなみに、中国が餌というと中国は怒るだろうが、それは中国がホストの国際会議で、敵対するアメリカを末席に座らせ、しかも低い椅子を用意し、一方、アメリカがそのホストの場合、敵対する中国を末席に座らせ、しかも低い椅子を用意するといった、まったくマンガみたいにまじめに馬鹿げた敵対する官僚主義者どうしの流儀をアメリカ側から見たまで。



より官僚主義の侵略者は、日本のより官僚主義化を、笑うべし。



しかし、もっと悲しむべきは、その搾取を気づかれないように日米に仕組まれたおちゃらけ文化にはしゃいでいる日本国。

笑うべし、悲しむべし。


たとえば、”みんなひとつになって支援しよう”(増税、国民弱者負担)、と、その善と美とを利用する。(いまだに福島原爆の責任をとらない)






火宅の人々。

2015/04/03
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