つまり、神(相対の神、仏)、とは一瞬の最高に輝く生命の私。最高に輝く私の一瞬とは最善の利他の時。その本来は一瞬の相対の私を絶対化したり永遠化したり全知全能にしたりするいわゆる神(仏)の黄金化はより無知な私によるより肥大化された神(仏)のイメージ。このより黄金化、より肥大化された神(仏)のイメージを官僚主義はその欲のために利用する。



唯心は、認識しなければ無という。心を肥大化し神とする。
唯物は、認識しなくとも有という。物を肥大化し神とする。



からは何も生じなく有の根拠になり得ないから無から有も生じないし無には認識もない。有は無限に分割できるから無に等しい



すべては、無限に小さくもあり(無に等しい)、無限に大きくもある(有に等しい)

すべては無であり有。



すべては有無を超えたもの。空(くう)。



神(私、すべて)は実体と称するもの(有無)としての心でも物でもなく、縁に触れて果となる空なるもの。空なるものが縁に触れて果となる記憶。因も縁も果も記憶。

この仕組みを法という。法もその空なる法に触れて果となる記憶。すべては空なる記憶。



その空なる記憶の法を絶対の神という。絶対の神は意思しないから全知でも全能でもない。その絶対者も空そのものは永遠でも一瞬でもない。すべては空なるものが一瞬の縁に触れて一瞬の果となるその一瞬の記憶。その記憶の繰り返しが世界。



悪魔の地獄の大破壊(ホロコースト)の世界もその肥大化された神(仏)のイメージを利用する官僚主義の私の狂信によってつくられる。



神(仏)の私も悪魔の私も天国(極楽)の私も地獄の私も、記憶の私は、”今、ここ”、の、一瞬の縁に触れて一瞬の果となる空なる記憶の一瞬の繰り返しの記憶の世界に生きている。



2013/05/06
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