自他は別のものではなく、私という一つのもので(他がないので一つという表現はおかしいが、便宜的表現)、しかも記憶であり、時空もその記憶の選択から生まれる単なる記憶だという非常識が常識になれば、殺す殺される、奪う奪われる、といういわゆる現実(主義)的だとする常識も、非現実(主義)的な非常識になる。そこから非武装の自立という考え方も現実味をおびてくる。今でも世界のほとんどの社会が個人の非武装を常識にしている。その中でほんの一部(戦闘地域、戦闘集団は別として)、アメリカのような超大国の最文明国とされる一部の国と、小さな国の森の奥の狩をなりわいとしている一部の小さな部族とが、個人の武装を常識にしている。個人が武器を持つ自由を国家に委ね自立できるように、すべてが一つの私のなりわいなら、同じ一つの私のなりわいのそのそれぞれの国家も、より進化した国連に武器を委ね自立できるはず。これが非武装の自立という、現実(主義)的常識

2013/09/16
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